レポート・歴史

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11月例会
2009/11/

11月例会

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★平成21年10月例会
2009/10/28

.★平成21年10月例会

日時  平成21年10月22日(木) 講演 18:30      

講師  弁護士 宮道 佳男氏

http://www.geocities.jp/miyamichi2003/index.html
http://homepage.mac.com/marron_marron/Personal11.html  
             
//////////////////////////////////////////
戦争の法のもとに
〜広島被爆者のなかに米兵もいた〜
ISBN978-4-903041-10-0
宮道佳男 著
定価(本体1400円+消費税)/46判並製176ページ

 現役の弁護士が執筆。著者が長年関心をもつ戦時国際法と、太平洋戦争時の空襲に焦点をあてた戦時下小説。著者あとがきでは「あの戦争の時代にあった細かなことを綴りながら、あり得たかも知れないことを想像し、自分が生きていたならどうしたか、やっぱり法家としてあの時代を生きて死んだであろうと思って書いた、ドキュメンタリー風フィクションです」と率直に語っている。


★平成21年10月例会
2009/10/28

.■ 名古屋経営研究会通信 2009/11/05
■■ 10月例会 講演レポート
■■■ テーマ  「名古屋空襲とふたつの裁判」
■■■■  講師  弁護士 宮道 佳男氏
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■       
 
                開催日 平成21年10月22日(木)
                 会場  ホテルオークラレストラン名古屋


名古屋空襲は死者8000人を記録した。
昭和20年5月14日の空襲では、
480機のB29が無差別爆撃を行い、市民に338人の死者がでた。

名古屋市内で2機が爆墜され、
搭乗員は落下傘で降下して11人が捕虜となった。
11人の米兵捕虜に対して日本陸軍の軍律法廷が開かれ、
全員死罰が宣告され、岡田資司令官は斬首にしてしまった。
処刑兵への肝試しであった。

この間にも無差別爆撃をした米兵捕虜は
多数指令部へ押送されてきており、
軍律法廷なしで27.人を斬首にした。
 
戦後、進駐軍が捜査に入り、
法務部長岡田痴一法務少将は自決し、
岡田資中将、審判官全員、憲兵隊員らがBC級裁判に掛けられた。

伊藤信男法務少佐   死刑 → 終身刑に減刑
松尾快治少佐     禁固20年
山東広吉法務中尉   禁固20年

片岡利厚中尉     禁固15年
岡田資中将      死刑
その他19人     終身刑から10年


どうも、アメリカ人は、
ロー(法)とかコート(法廷)という言葉を聞くと、
起立敬礼をしたくなるようである。

建国以来陪審裁判が普及しており、
アメリカ人にとっては教会と法廷は尊敬すべき対象のようだ。

アメリカは看守の米兵虐待事件では死刑を乱発するのに、
何故、無差別爆撃の捕虜処刑事件では死刑を回避したのか。
アメリカ人には法廷への敬意があったからであろう。

名古屋空襲の戦犯裁判では、
アメリカ側と日本側で争点のずれがあった。

アメリカ側は
「名古屋市は防備都市であり住宅地への空襲は認められる」
と陸戦法規を根拠とする主張を行い、

日本側は
「無差別爆撃は空戦規則違反である」と主張した。


日本弁護人からアメリカへ
「アメリカは空戦規則を遵守する意思はあるのか。」
昭和17年アメリカは日本へ
「1929年ジュネーブ条約批准の意思があるか」と質問し、
日本は「批准していないが準用する」、回答をしたことがあった。

これと同じように質問すると言えばよかったのに、
そうしたことをしていない。

この論点が曖昧のまま裁判が進行してしまい、
防備都市名古屋市への空襲は有効で
日本人は有罪との判決が下りてしまったことは残念である。


この戦犯裁判では謎かけのようなやり取りがあった。

アメリカ裁判長が岡田資中将に
「無差別爆撃に対する報復として米兵を処刑したのか。
アメリカ陸軍陸戦法規に報復の規定はある」と尋ね、
岡田中将は「断じて報復ではない。裁判である」と答えている。

報復であると答えていたら、判決はどうなっていたであろうか。

岡田中将が、「報復か」と問われ、
「然り、違法な無差別爆撃に対して報復である懲罰を
即刻戦場で処したのである」と回答すれば、
私は死刑を回避できたような気がする。


昭和17年4月18日米空母ホーネットから飛び立ったB25の16機は
東京・名古屋・神戸を空襲して中国大陸へ去ったが、
大陸で2機が不時着し、8人が捕虜となった。

軍律法廷の結果、
8人に死刑判決を下したが、
2人の機長と機銃手1人を死刑とし、
その他は減刑して1人は獄死し4人は生還した。
  

戦後上海でBC級裁判が始まり、
日本人の司令官中将に懲役5年、
審判官大尉に懲役9年、審判官少尉に懲役5年、
監獄長大尉に懲役5年の各判決があった。

私は、ドーリットル隊への裁判の時、
上海軍律裁判ではなく、
東京地裁の陪審裁判に起訴すれば良かったと思う。

ルドルフ・ヘスはナチス副総統で
1941年5月独ソ戦直前に単身英国へ戦闘機で飛行し
英独講和を試みた。

捕虜となり1987年彼は寂しく首つり自殺したが、93歳であった。
46年間の捕虜生活だった訳である。


日本最古の捕虜は誰か、
702年遣唐使長官栗田朝臣真人(アワタノアソンノマヒト)が
唐の首都長安に行き、
陸奥国壬生五百足(ミブノイオタリ)が663年の白村江の戦い以来
44年を経過して帰国できた。

658年阿倍比羅夫は秋田・北海道へ蝦夷退治の遠征をし、
陸奥国壬生五百足(ミブノイオタリ)が
阿倍比羅夫に降伏した蝦夷人であれば、
降伏してから徴兵され百済派遣軍に編入された可能性がある。

そうならば、
658年から707年まで捕虜生活をしたということになり、
実に49年間となり、46年間のルドルフ・ヘスを超える。


陸奥国壬生五百足(ミブノイオタリ)は浦島太郎ではないか。
浦島太郎伝説がある。
子供向けのお伽話である。

陸奥国壬生五百足(ミブノイオタリ)が帰国し、
多分朝廷に召し出されたであろう。

褒美が与えられ、所望するものは何かと問われ、
故郷の陸奥に帰国したいと言ったであろう。

望みはかなえられ、
護衛隊の警備のもと陸奥国に旅立つこととなった。
その時玉手箱が下賜され
「畿内では開けるべからず。東国に至りて開けよ」命じられる。

都を去り、関ヶ原を超え、中山道の木曽福島寝覚ノ床に至り、
もうここならば良いであろうと玉手箱を開くと、
死を賜うと書いてある紙片があった。

護衛隊長は壬生五百足(ミブノオクタリ)の背後に回り剣を振るった。
寝覚ノ床には浦島伝説が伝わっている。
何故こんな山国に海の話が残っているのか、不思議である。
陸奥へ帰る途中としか考えられない。


何故、彼は処刑されたか。
秘密を知っていたからであろう。
その時の大臣が百済で真っ先に敵前逃亡をしたという
事実を知っていたとか、

或いは彼は百済の王女乙姫と出来ていて、
乙姫は日本へ逃亡して一子を産んだ。
その子は長じて大臣となり、その娘が天皇の后となった。
彼を生かせておけば天皇家の血筋に蝦夷が混ざることが曝させる。

乙姫と大臣は密封処刑命令の玉手箱を渡したのである。

★平成21年10月例会
2009/10/28

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★平成21年10月例会
2009/10/28

★平成21年10月例会

日時  平成21年10月22日(木) 講演 18:30      

9月例会
2009/09/17

9月例会

●日時 平成21年9月16日(水)
18:00 受付
18:30 講演会
20:00 懇親会
※くれぐれも時間厳守でお願い致します

●会場 ローズコートホテル 名古屋市中区大須4-9-30  
     TEL 052-269-1811




●テーマ  「名古屋をグローバル教育のメッカに」

●講師   株式会社マルチカルチュラル・プレーイングフィールド社
       社長 渥美 育子 氏 

●プロフィール
青山学院大学助教授を経て、ハーハード大学研究員。 

米国滞在25年のあいだに
IBM、DuPont worldwide、
United Technologies Corporation(以上米国)、
Heidelberg Druckmaschinen(ドイツ)、シンガポール政府など

多数の世界一企業や政府機関に
世界市場戦略・グローバル人材育成のセミナ、
コンサルテイング、コーチングなどをおこない、
グローバルビジネス支援ツールを創って提供してきた。

また、米国同時多発テロをきっかけに、
世界の子供たちが地球市民に成長する教材
<地球村への10のステップ>を制作。
グローバル教育というジャンルをつくりだした。

http://www.global-miraijuku.org
http://www.global-kyoiku.com


      
■■ 9月例会 講演レポート
■■■ テーマ  「名古屋をグローバル教育のメッカに」
■■■■  講師  株式会社マルチカルチュラル・プレーイングフィールド社
■■■■       社長 渥美 育子 氏
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■       
 
                開催日 平成21年9月16日(水)
                 会場  ローズコートホテル


■■グローバル時代を生き抜くために■■

グローバリゼーションが始まったのは1989年〜91年です。
それまでは「自国」対「外国」という発想でした。

グローバリゼーションが始まることで、
世界の中の日本、
日本から世界へどういう付加価値をつけて発信していくか
というダイナミックな見方に変わってきたわけです。

ところが、
日本ではグローバルという言葉は使われていますが、
多くの人の頭の中の世界地図は白地図の状態。

これを変えたいというのがグローバル教育の出発点です。


90年代半ば、世界の価値観が変わりました。
冷戦体制時代には政治イデオロギーが重要でした。

その後、90年代になって、
主要民族のアイデンティティと、
彼らの文化のDNAというものが重要になってきた。

したがって、
今、世界市場でビジネスをするときには、
どの民族が、どういう文化のアイデンティティを持っているか
ということを理解して現地人をモチベートしていく必要があるわけです。


地球上に生きている68億人の心の構造が解ればビジネスも
上手くいく。

そこで、
アメリカの会社で働いていた30ヶ国の現地出身の
インストラクターと一緒になって作り上げたのが
「文化の世界地図」です。

これには合計30ヶ国の文化のDNAに基づくインテリジェンスを
収録しています。

あらゆる社会は
価値の中心をどこに置いているかによって
3つの文化コードに分けられます。


●価値の中心を「ルール」に置いている国を「リーガルコード」の国。

米国、カナダのアングロサクソン系住民の地区、
英国、北欧諸国があります。
世界のグローバル競争力の上位20ヶ国の中には、
リーガルコードの国が全部入っています。


●日本を含めたアジア諸国、ラテンアメリカ諸国などの
 「モラルコード」の国。

これは「人間関係」が非常に重要な社会です。


●「神の教え」が価値基準の中心である「レリジャスコード」の国。

中東諸国、北アフリカ諸国などがあります。


これら3つのコードのうち、
2つ以上を併存している国を「ミックスコード」としています。

それぞれのコードでは、
判断の基準や信頼関係の作り方、
問題が起きたときの解決の仕方、
コミュニケーションや交渉のスタイルが違います。

モラルコードとレリジャスコードは一見、類似性がありますが、
リーガルコードとモラルコードには共通点がないばかりか、
価値観が180度違うのです。


■■なぜグローバル教育が必要なのか■■

いろんな民族のDNAを勉強していくと、
日本人のDNAの中には、
残念ながらグローバル時代で勝つための要素が少ない
ことが解ります。

現場から立ち上がってくる知恵、
ノウハウ、精神性というものに注目する文化だからです。

それに対して、
米国人のDNAの中には、
ルールを作っていくというリーガルバリューが社会の価値観に
なっている。

グローバリゼーションの時代が来たとき、
世界共通のルールを作るということになると
米国人のDNAの方が、優位性を持っているといえるわけです。

日本人にとって、もっと問題なのは、
中国人のDNAの中にグローバル時代に開花する要素を
いくつか持っているということです。

したがって、
日本人は、学習によってDNAの差を埋めていくことが
要になるわけです。

そのためには、
どういうグローバル教育を、早く、適切に根づかせるかということを
自覚する必要があります。


そのために、
今、日本で3つのプロジェクトを進めています。


●文化の世界地図を使って世界市場で勝つための人材育成

●子供のグローバル教育オリジナルプログラムである
  「地球村への10のステップ」の私立中等・高等学校、
  インターナショナルスクール、大学への導入

●グローバル人材検定の立ち上げ


「地球村への10のステップ」というのは、
子供たちが自分でデザインしたグローバルコースターに乗って
3500年の時間と世界空間からなる「地球村らんど」を旅をする
という体験プログラムです。

今、名古屋に「地球村への10のステップ」のテーマパークを作ろう
という願ってもないアイデアがでています。

米国生まれの「ディスニーランド」、メキシコ生まれの「キッザニア」
に続き、日本人が創った「地球村らんど」を体験して、
子供たちが21世紀の素晴らしい担い手になってくれたらと
思っています。

グローバル教育というのは、
個をグローバル化することによって、
絶大な能力を身につけるという歴史上初めての教育です。

もし名古屋にいち早くグローバル教育を根づかせることができれば、
名古屋を日本の未来都市に変えることができるのではないかと
思っています。
� HP:永津彰人

9月例会
2009/09/17

9月例会

●日時 平成21年9月16日(水)

7月例会 講演レポート
2009/08/26

2009/8/31
■■ 7月例会 講演レポート
■■■ テーマ  「政界の血判集団、青嵐会―政治が面白かった時代の物語」
■■■■  講師  元毎日新聞社 常務
■■■■       慶應大学マスメディア・コミュニケーション研究所講師
■■■■       ジャーナリスト  河内 孝氏
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■       
 
                開催日 平成21年7月17日(金)
                 会場  名古屋クレストンホテル9F宴会場


■■青嵐会の誕生■■

青嵐会は1978年の7月10日に29人が血判を押して発足しました。
このことがセンセーショナルな話題となりました。

青嵐というのは、寒冷前線のことで、
夏に激しく夕立を降らせて、
世の中をさわやかに変えて、過ぎる嵐だという意味。

我々の目的もそうであろうということで石原慎太郎がつけた名です。


青嵐会の趣意書には、

党の偏在を是正し、不労所得を排除する
国防問題を積極的に取り上げる
日本民族の真の自由、安全、繁栄を帰するために
自主独立の憲法を制定する

ということが書かれています。


ここまでは渡辺美智雄が書いたのですが、
最後に血判するしないで大騒ぎになりました。

「絶対、血判だ!」と主張したのが、
浜田幸一、中尾栄一、石原慎太郎の3人でした。

政治家というのは、
署名は簡単にするけれど、
次の日になれば、そんなつもりじゃなかったとか、
そんなことなら署名しなかったとか平気で言ってしまうような人が多い。

我々は行動集団なんだからという理由で、
血判にこだわったわけです。


お酒の席で中川一郎さんが良く話をしていたパンパン事件
というのがあります。
パンパンというのは、
戦後、占領軍として駐留した米軍兵士に春を売った女性のことです。


あるとき、
電車の中で米兵と一緒の女性の態度があまりに横暴なので、
中川一郎がAre you panpan?と声をかけた。

するとその女性は、烈火のごとく怒って、
米兵と殴り合いのようになったわけです。
電車が駅についても電車が発車しない。

兵隊は、
「僕の彼女を侮辱した男をここへ連れてくるまで
電車を出してはならない」といって駅でもめているのです。


中川は兵隊に、
「何か俺に文句があるのか?」といったら、
彼は「一発殴らせろ」という。

中川は、
「日本には、喧嘩は五分と五分という言葉があるので
俺も不愉快だ。俺にも殴らせろ」といった。

そういうことで大騒ぎになった。

当時の日本人は、
初めての異民族支配下で、特別な気持ちがあったのです。

そういうことから
「アメリカから独立しよう」というのは
戦後、日本人の心の中に潜在した精神だと思うのです。

しかし青嵐会の主張は
当時、マスコミからは危険な思想だと叩かれ続けたのです。
この戦後のナショナリズムが、青嵐会のルーツともいえます。


■■自民党内での青嵐会の役割■■

青嵐会をひとくちでいうと、
鳩山、岸の憲法改正、自主防衛、自主独立路線の後継者です。
独立をしたのだから、
国家の基本である国防や外交というのはきちんと自立しないと
いけないという考え。

それに対して自由党の吉田に代表される経済優先路線。
マッカーサー占領軍に国の防衛を任せて、
経済の復興を最優先するという考え。

主義主張が全く違うわけです。

ところが、
社会党の躍進により、政権を取られそうになってしまう。
そこで2つの保守の流れというものが、
昭和30年、緊急避難的に一緒になったのが自由民主党です。

そういう中で青嵐会は、
自民党内で「本来の姿(憲法改正、自主独立)に戻れ」と
やってきたのです。


ところが、
メンバーたちが若いときは、党内で暴れてきたのですが、
渡辺美智雄も中川一郎も石原慎太郎も大臣になり、
子分ができる。
なかなか思想だけで動けなくなってしまった。

そういう中で青嵐会という闘争集団は、
一方は福田派の別働隊として便利に使われ、
一方は大平の別働隊として便利に使われて、
会としては空中分解していったわけです。


青嵐会が訴えたものは何か。
一言でいえば、「人は金儲けのみにあらず」という論理です。

江戸時代、武士は儒教を学んで藩主に対して忠義を尽くし、
いざというときには死ぬ。
その代わり、藩士は徳をもってその家族の面倒を見る。
その論理の中心は、
元服したらいつでも腹を切らないといけないということです。

白虎隊の若い子弟が死ねたのは、
どういうときに死ぬかということを子供のときから徹底的に
教えているからです。

もちろん「死ぬことがいい」ということではなく、
人間の姿勢というものを徹底的に教えていたのです。

一方、町民は、寺子屋で読み書き、そろばんを教わりながら、
お坊さんがその間に人の道を教える。

今の子よりよほど、
「なぜ親孝行するのか」、
「なぜ殺生はいけないのか」を叩きこまれた。
だから金属バットで親を殺す輩は出なかった。

ところが、
今の土地亡者やバブル亡者というのは「足る」ということを知らない。
自分の欲望をコントロールできない。
そう考えると江戸時代の教育の方がきちんとしていたわけです。


マスコミは、青嵐会の人たちが、
「教育勅語がよかった」という時代錯誤をあざ笑いました。

でも、逆にあざ笑った人たちが作った日本は
どんな国になってしまったのかということを思うと
青嵐会の方が未だまともじゃないでしょうか。

戦後政治といえば、
吉田、池田、佐藤の高度成長というふうに思われていますが、
このように自民党の中にも伏流水があって精神のバランスを
とってきたといえます。

7月例会 講演レポート
2009/08/26

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