レポート・歴史

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

,1月例会
2011/02/11

,1月例会

◇◇忘年会◇◇
2011/01/13

◇◇忘年会◇◇

日時 平成22年12月27日(月) 宴会開始 18:30

余興 「女流講談師 古池鱗林の名古屋講談」

    宗春統治時代・正木町のクラガリの森・
    心中未遂事件「遊女小さんと畳職人喜八」を創作した講談、
    本邦初公開
    http://www.ne.jp/asahi/koi/rin/index.html

会場  料亭 蔦茂(つたも)
    名古屋市中区栄3-9-27
    TEL 052-241-3666 
    http://www.tsutamo.com/

.
2011/01/13

.

11月例会
2010/12/02

11月例会

●テーマ  「地域主権を語る」

●日時 平成22年11月19日(金)   
18:00 受付
18:30 講演会
20:00 懇親会


●講 師 衆議院議員
      石田 芳弘 氏

●プロフィール

1945年10月 犬山市に生まれる
1969年 3月 同志社大学商学部卒業
1983年 4月 愛知県議会議員
1995年 4月 犬山市長
2009年 8月 衆議院議員

「生活者主権の国づくりをしたい」
「真の地方分権を実現したい」という強い思いで政治活動中。

主な著書として、
「君も市長になれ―犬山市長・石田芳弘の3000日」
「地域から日本を変える」
「今こそローカリズム―石田芳弘対談集」

「自ら学ぶ力を育む教育文化の創造―犬山市の教育改革のさらなる展開」
「挑戦(2007・愛知県知事選の証言)」などがある


※くれぐれも時間厳守でお願い致します

●会場 ローズコートホテル 名古屋市中区大須4-9-30 
    TEL  052-269-1811 

      

.11月例会 講演レポート
. 2010/12/09

.■ 名古屋経営研究会通信 2010/12/09
■■ 11月例会 講演レポート
■■   テーマ  「地域主権を語る」
■■■■ 講師  衆議院議員       
■■■■     石田 芳弘 氏
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■       
 
                開催日 平成22年11月19日(金) 
                 会場  ローズコートホテル 


■■まちは生涯教育の最良のテキストブックである■■

私は衆議員の秘書をやって、
37歳で県会議員に挑戦をしました。

当時犬山では県会議員の選挙は24年間(6期)全く
ありませんでした。
有権者の皆さんを政治に引っ張り込むためには
対立軸をつくらないとダメなのです。

そこで私が選挙をやろうと言いました。
その考えが支持されて当選したのです。


市長選のときもそうでした。
私の前の市長が四期、無投票で市長をやっていました。
そこでも私が対立のドラマを作り、
48歳で私は犬山市長になりました。


国会議員になった私が、
これからやりたいと思っていることは、
「まちづくり基本法」のようなものを皆と議論していくことです。

まちを作るためのミクロな法律としては建築基準法。
マクロ的には都市計画法があります。

ところが2つとも、戦後、日本が経済成長し、
人口が右肩上がりしていく中で、
古いものは壊していくという再生の考えが根底にあります。

古いものをどんどん壊し、
新しくすることが文明だと思っているのです。


景観10年、風景100年、風土1000年といいます。
表面をきれいにすることは10年でできるのです。

ところが私たち民族そのものの風土というのは
1000年の歴史の上に成り立っているのです。
そこを全く無視してまちをつくっても一過性のまちにしかなりません。

戦後、日本のまちがどんどん破壊されていったのは、
風土というものを抜きにしたまちづくりをしてきたからです。

ヨーロッパのまちは中心軸がきちんとしています。
まちづくりは中心軸が求心力になるのです。
戦後のまちづくりがバラバラで、
クリーンではあるけれど、ビューティフルさをなくしたのは
経済性、効率性だけでまちの中心軸をないがしろにしたからです。

ところが城には、
ヨーロッパの教会と同じような精神性の軸があります。
これがあるかないかで、まちづくりの戦略が本当に変わってきます。


まちに何が必要かというとビジョンです。
夢を持っている人たちがいれば、絶対にまちは再生します。
蘇ると思います。

そういうことが、私は
「まちは生涯教育の最良のテキストブックである」
と思う理由です。


■■政権交代の本質を考える■■

私は民主党に自分の政治的な夢を託したのですが、
どうして去年の9月に国民の皆さんが民主党に政権をとらせたか
という分析をしてみたいと思います。


私はスカンジナビア半島の各国、
あるいはフランスやイタリアへ行って地方自治を見てきました。

民主主義が成熟していく国家というのは
福祉政策にお金を使っています。
医療、介護、教育、にお金を使っているのです。

ところが、
日本は経済発展のためにダムを造り続けてきました。
あるいは飛行場。
ところが97ある飛行場の90%以上が赤字です。

それから、高速道路や新幹線。
道路、新幹線というのは1つ造れば必ず不公平が拡散します。
こちらに造れば、向こうの人も造れというに決まっています。
際限なく造り続けないといけない。

こういうことに日本はお金を使ってきたわけです。
はっきりいって土建国家といえます。


もうひとつの大事な切り口としては女性の社会進出です。
スウェーデンでは議員の半分は女性。
子育て支援も圧倒的です。

日本は先進国だ、先進国だといっていますが
男性と女性の権利の状態は、全く後進国です。

もっと子育てにお金を使おう。
教育にお金を使っていこう。

そういうことに日本人が気づき、
そちらの方向を選択したのが民主党の政権交代だったと
私は位置づけています。


去年の9月に大きな争点となったのが郵政民営化。
郵便局というのはコミュニティです。
郵便配達に行って、年配の人と話をしてくる。
そういう中で保険などの金融もやってきた。
総合的なコミュニティの経済活動なのです。

それを効率だけで進めてきたことで
大都市と地方との格差が助長されました。

競争というのは必ずしも善ではありません。
コンセンサスを得た上での競争はいいのですが
競争至上主義というのはよくないのです。


まちづくりでも、都市と農村は一蓮托生です。
名古屋の水問題などは、
上流部の岐阜県や長野県の森とセットで考えます。
そういうイメージの都会づくりをしていかないと
持続不可能になってしまいます。


政権交代というのは、
そういう環境問題もひっくるめて
世界中の先進国の潮流として日本人も捉えてきた
ということではないかと思います。

ところが最近は、
せっかく国民から支持をしていただけたのに政権についたら
グラついてきた。
民主党の政治的使命はなにかということを守れなくなってしまった。

この不安定期を乗り越えて、
なんとか国のあり方を変えて行く方向でないと、
民主国家としては前進できないと思っています。


■■地域主権、地方議会についての私見■■

前政権のときには「地方分権」といっていました。
今の民主党政権は「地域主権」という言葉を使っています。

イメージとして
地方分権というのは中央の権限を地方に下ろすという
「官対官」の関係です。

地域主権というのは
官対官ではなく、それぞれのコミュニティ、リージョンが大事ですよ、
そこが岩盤になって国がありますよ、というイメージです。

あるいは、民主主義のあり方としては、
地方分権というのは上からシャワーでみずをかけるように
権限を下ろしていくというイメージ。

地域主権というのは、地下水が湧きでてくるように
皆さんのところが大事ですよというイメージです。


私は地域主権で一番大事なのは地方議会だと思います。
日本国憲法の前文は、
「日本国民はそれぞれの代表者として議員を選び、その議員に統治をさせる」
というところから始まっています。

議員というのは
それくらい民主主義にとっては基本中の基本なのです。

デンマークやオランダの役所に行くと
部長は議員がやっています。
日本では役所に行ってでてくるのは役所の人です。

本来、お客さんに対する説明は議員がするのが住民代表の
役割なのです。


今、日本では
「法令」というものによって、中央が地方を縛っています。
地方の法律として、
国の法律に匹敵するものを「条令」といいます。

アメリカではこのローカルルールが連邦政府の法律より
プライオリティが上。
これが真の地方分権であり地域主権なのです。

また、地方分権の中で
「通達は単なる助言」という位置づけにされましたが、
今でも地方の自治体の職員は全面的に通達を聞いています。

市民より通達のほうを向いている。
そういうことを打破していかないといけないのです。


10月例会
2010/10/13

10月例会

●テーマ  「逆説の名古屋史」

●講 師 歴史作家 
      井沢 元彦 氏

●プロフィール

昭和29年名古屋市生まれ。
早大法学部卒。

TBS入社後、報道局放送記者時代
「猿丸幻視行(さるまるげんしこう)」にて
第26回江戸川乱歩賞受賞(26歳)、
31歳にて退社、執筆活動に専念。

以後、歴史推理、ノンフィクションに独自の世界を開拓、
最近の主なる著書としては
「言霊(ことだま)」「逆説の日本史1〜16」
「恨(ハン)の法廷」「ユダヤ、キリスト、イスラム集中講義」
「中国 地球人類の難題」などがある。

また、現在週刊ポストに連載中「逆説の日本史」は
800回を突破している。

一方、テレビ、ラジオにも出演中。
現在、 大正大学客員教授、日本ペンクラブ会員。


●日時 平成22年10月12日(火)   
18:00 受付
18:30 講演会
20:00 懇親会
※くれぐれも時間厳守でお願い致します

●会場 料亭 蔦茂 (講演会、親睦会)
    名古屋市中区栄3-9-27
    TEL 052-241-3666 
    http://www.tsutamo.com/ 

地図
http://www.mapion.co.jp/m/35.16356388_136.906775_10/


※今回の懇親会はバイキング方式ではなく、
着席でのお料理となりますので

10月例会 講演レポート
2010/11/16

■ 名古屋経営研究会通信 2010/11/16
■■ 10月例会 講演レポート
■■   テーマ  「逆説の名古屋史」
■■■■ 講師  歴史作家       
■■■■     井沢 元彦 氏
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■       
 
                開催日 平成22年10月12日(火) 
                 会場  料亭 蔦茂 


■■名古屋を大都市に成長させた陰の人物■■

1610年当時、尾張で一番栄えていた清洲から、
町全体を名古屋に引っ越してきました。
これを清洲越しといっています。

ところが、
名古屋は城下町であって、商店もなければ、遊ぶところもない。
それらは今の熱田神宮前にあったのです。

名古屋は政治的に作られた都市だったゆえに、
商業都市としては非常に条件が悪かったのです。
それを大胆に変えた人が徳川宗春です。

この人は、特に経済に関して、近代的な考え方をした人です。
そのライバルである徳川吉宗と、
まるで反対の方向の政策を行いました。


吉宗はとにかく倹約しろといった。
官の費用を減らすといったことは、
公費を削るということですから問題ないのですが、
町人や、百姓などにも、贅沢をするな、高価な飾り物はつけるな
といって倹約を強制したのです。

そうすると、飾り職人は失業してしまう。
江戸は火が消えたようになってしまう。


宗治は逆のことをやりました。
するとそれまで、宮の渡しで降りるか、
そのまま船に乗って桑名に行っていた人たちが
名古屋に来るようになった。

江戸で禁じられている芝居も名古屋ではOKということにした。
すると、大阪の役者も、東京の役者も、
全て名古屋に来て、興行をうち、名古屋が栄えたのです。


そんな宗治の失脚を狙っていたライバルの吉宗は、
宗春の家来を取り込むような形で、
隠居させられることになりました。

その後は城の一室に幽閉され、
死ぬまでそこを出ることができませんでした。


また、尾張徳川家というのは、
宗春のときに形式上、断絶しています。

吉宗が一旦、つぶしておいて、
全く別のところから松平の子孫を呼んできて
新たに復興させたのです。

ですから、
尾張宗春の系統と今の尾張徳川家の子孫は
直系的にはつながっていません。

さらに吉宗は
自分の生前に、御三卿の田安と一橋を作りました。
後に、息子の家重が清水家を作ります。
これは全て、吉宗の子供の系統です。
つまり尾張系を将軍後継者から排除したというわけです。


■■日本史を逆説的に考える■■

学校の教科書で、江戸時代の三大改革といえば、

徳川吉宗の享保の改革、
松平定信の寛政の改革、
水野忠邦の天保の改革

となっています。


享保の改革と寛政の改革の間に、行われた政治、
田沼時代は田沼意次によって行われたものですが
「田沼時代」という言い方しかしていません。

「三大改革+ちょっと異質な政治として田沼時代」

これが日本の歴史学の専門の歴史学者の考え方なのです。


「改革とは、その組織の中身を改良して、長持ちさせることだ」
と考えるなら三大改革は改革ではないといえます。


三大改革の共通しているのは農業重視。
米の増産で幕府の財政を良くしようと考えたわけです。

江戸時代の武士は、米で給料をもらっていました。
そこで、米の収穫期に武士は札差という商人に売って、
現金化していたのです。
このときの値段は時価ですので、
米の収穫期に売れば、当然、買い叩かれる。

こういう体制で、米の絶対生産量を増やしたら、
米の売買価格がどんどん安くなる。
武士の給料がどんどん目減りしていくということです。


幕府という中央政府の財政も米で収入を得ています。
米を時価で売っているにも拘らず米を増産していたら
財政が破綻するというのは誰でも解かる理屈です。
これが財政的に滅んだ一番の理由です。

じゃあ、一度に札差に売るというようなことをせずに、
半年ずらして売るとか、
飢饉のときまで倉庫に入れておけばいいじゃないか
と思う人がいるかもしれませんが、
武士はそれをやってはいけない。

武士の風上にもおけないことだったのです。

幕府は中央政権ですから、通貨発行権を持っている。
金山銀山も持っていた。
貿易も独占していた。

そんないろんな財布があったため
幕府は米中心の経済から脱却できなかったわけです。


ところが、
背に腹は代えられないじゃないか、
商売をきちんとやろうじゃないかといって、やったのが
薩摩藩、長州藩などです。

幕府は、商工業、貿易を拡大して、金銀を稼いで、
農民からの税ではなく、商工業者や交易業に税制をシフトして、
年貢だけではなく、
流通税、物品税、消費税のようなものを作ればよかったのです。
実は、それをやれといっていたのが田沼意次です。

ところが田沼意次のやろうとしたことは、武士の世界では、禁じ手。
田沼意次は10代将軍、家治の厚い信任を受けて
幕府の税制構造を根本的に転換しようとしました。

自分一代では無理だと思ったのか、
自分が老中のときに、息子の意知(おきとも)を若年寄にして、
自分が死んでも路線を継いでくれるという形をとっていた。
ところが、意知が暗殺されてしまう。

息子を暗殺されて、
ガックリして失脚したところを松平定信が権力を握るわけです。

ところがこのような話は教科書には書かれていません。
江戸時代の評価をそのまま翻訳されたものが、
現在の教科書まで受け継がれているわけです。


■■歴史を知ると、日本のありかたが見えてくる■■

江戸時代というのは、260年間戦争が起こっていません。
物事を武力で解決しようという人は全然いない。
江戸時代で特に禁止されたのは武器の改良です。

火縄銃は雨の中では打てません。
だからといって、
雨の中でも打てる連発銃を作るということは禁止されていたのです。


大砲も戦国時代当初のままで、
もっと射程距離の長い、
破壊力の強い大砲を作るということも禁じられていました。

黒船がやってきたとき、
敵は200年以上進歩しているにも拘わらず、
こちらは260年前に武器の改良を止めている。
慌てるのは当然のことなのです。


江戸時代は、身分制を打破しようと思わなければ、
永遠に平和を続くだろうというような社会です。
そういう社会を壊したくないという人もいた。

そのこだわりは理解できますが、
やっぱり無理があったということなのです。
ここに日本人が歴史に学ばないといけないことがあります。

日本人は戦国時代が終わったときに、
これからは絶対の平和を求めました。
それは良いことです。
問題は、そのやりかたなのです。

日本だけが武器の改良を止めて外国とつきあわなければ、
平和が保てると思った。
でも、日本がいくら武器の改良を止めても、
海の向こうでは改良しているわけです。


昭和20年も同じです。
日本だけが戦争しないというルールを頑なに守っていればいい、
武器は輸出しない、核兵器は持たない、というように
「日本は○○しない」で世界は平和になるのかということです。

それは無理だということは、
日本人は痛切にわかっているはずなのです。

私たちは、これからもっと歴史を知ることで、
歴史に蓄積された知恵について学べるのではないでしょうか。


.
2010/10/13

.

9月例会
2010/09/15

9月例会

●日時 平成22年9月14日(火)  
18:00 受付
18:30 講演会
20:00 懇親会
※くれぐれも時間厳守でお願い致します

●テーマ  「江戸時代・名古屋の町衆生活」

●講 師 愛知学院大学講師 
      早川 秋子 氏

●プロフィール

1968年名古屋生まれ。
愛知学院大学大学院法学研究科修了。博士(法学)。
博士課程後期在学中の3年間、
日本学術振興会の特別研究員に選ばれる。

江戸、大坂、京都の三都を中心とした他都市との比較も踏まえ、
「家並帳」という史料を、
江戸時代に主に濃尾地方で作成・利用された不動産登記簿として
整理する(学位論文)。

『新修名古屋市史』、『長久手町史』等の市町村史編纂事業にも参加。
『新修名古屋市史』資料編近世2は、今年2月発刊。


現在は、愛知学院大学法学部、同校教養学部他、
名古屋外国語大学教養学部等で非常勤講師をしながら
近世名古屋の町方の研究を続ける。

http://seibundo-pb.co.jp/index/ISBN4-7924-0538-6.html

●会場 札幌かに本家・栄中央店
    名古屋市中区栄3-8-28(プリンセス大通り・丸栄南)  
    TEL 052-263-1161  http://www.kani-honke.co.jp/
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

9月例会 講演レポート
2010/09/15

■■ 9月例会 講演レポート
■■   テーマ  「江戸時代・名古屋の町衆生活」
■■■■ 講師  愛知学院大学講師       
■■■■     早川 秋子 氏
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■       
 
                開催日 平成22年9月14日(火) 
                 会場  札幌かに本家・栄中央店 


■■7年間にわたる町ぐるみの大移動、清洲越し■■

名古屋の町は清洲越しからお話をしていくのが良いと思います。
家康が初代藩主義直のために
尾張藩を興すことを計画するわけですが、
家康は小牧長久手の戦いで織田信勝と連合して
豊臣秀吉と戦ったことがあります。

清須を良く知っている家康としては万一、秀頼が兵を挙げ、
豊臣方の諸大名が一気に蜂起した場合、
清須城ではとても持ちこたえられないと考えていた。

そこで、
臣下に修理の検討案を出させると、
山下氏勝が、新地での築城を進言しました。


清洲は尾張平野の真ん中にある平城で
籠城することが難しいうえ、周りは低湿地帯で水攻めに弱い。
領地が狭く親藩のひとつの居城としては適当でない、
そういう欠点を補うべく、新地築城候補としてあげられたのは、
ここ名古屋、あるいは、古渡、小牧山などです。

ここの中から家康が、
名古屋を選ぶことを決心したのが慶長14年、1609年のこと。
その翌年、慶長15年から清洲越しが始まるわけです。


城下町を築いていく、商業を発達させていく、
城の要害となり、城下町の大動脈となるような川が必要
ということで、新たに開削されたのが堀川です。

堀川は名古屋城に物資を運ぶという目的だけではありません。
一大商業都市となる名古屋を水運で、助けていこう
という目的もありました。


慶長15年6月1日、築城に先立って堀川を開削。
6月3日に城の根石を置き、
13日には本丸の石垣が完成しました。

8月27日には、天守閣石垣が完成し、
普請手助けの諸大名の担当丁場も完成したといいますから
9月には名古屋城も、堀川も
その基礎工事がずいぶんできていたということになります。

当時、清洲には、
人口にして6〜7万人の人が生活していたといいます。
その人々が名古屋へと移動するのが清須越です。


町民としては経済的な負担もある、初めての地、
名古屋に出向くということで不安も大きかった。
そこで、町ぐるみで引越しをさせたといわれます。

馴染みの橋や寺院など全て一緒に、
釘ひとつ残さぬように引越しさせました。
全ての移動が終わるまでには、7年くらいはかかったようです。


名古屋の街作りをみると、
城の周りには武家屋敷が取り囲んでいます。
築城するときは、穏やかならぬ状況でしたので
何かあったときに城を守る武士が取り囲んでいたわけです。

その下に城下町開かれ、
町人たちが清須から続々とやってきます。

名古屋の陸の大動脈となる街道の要所要所に
寺社が配置されました。
寺には、広い境内があります、
中から見れば兵士や武器を隠しておけますし、
外からは攻めにくくなります。

町人町の周りには、
足軽などの下級武士の役宅を置き、
南からの攻撃に備えます。


■■町衆の生活■■

名古屋の町人人口はだいたい5万5千人といわれています。
享保13年、藩主で言えば、六代継友の治世。
碁盤割の周辺村々との合併が行われて、
7万5千人に増えたといわれています。

江戸時代の名古屋には、
町人7万五千人と武士階級約五万人が生活していたといいます。


商人たちは碁盤割に集中していますが、
ここに、家を構えるというのが
当時の商人たちにとっての憧れでした。

本町には「書林風月堂孫助」、和菓子や「桔梗屋池田又兵衛」、
両口屋是清の看板は二代光友の筆といいます。

本町南側の富田町には大丸百貨店の前身「下むら呉服店」、
お茶の升半 升屋半二郎、
本町通りの一等地茶屋町には幕府呉服師、尾州茶屋家や
松坂屋の伊藤次郎左衛門家、丸栄 十一屋などが
暖簾を並べた。


これらの商人たちが工夫と努力で富を蓄えていくのに対し、
藩は御三家筆頭でありながら、
寺院の修復、暴風、水害などに悩まされ、
江戸時代後期に向かって財政難になりますが、
この傾いた藩財政を支えたのが「御勝手御用達」です。

有力商人を9つに格付けして、
莫大な調達金を負担させるわけです。


さて、町の人が町人、町人と、ひと言でいいますが、
不動産を持っている家持(いえもち)、
不動産を持たない借地人、借家人とに分けられます。

そして不動産を持っている家持は、
不動産を基準として課せられる税金、負担を負う代わりに、
自治に参加する権利を持つ不動産が重要な意味を持つので、
二重売買などの問題が起こる。

そのときのために、
売買証文(沽券、売券などともいう)を作成して、
何かあったときに備えていたわけです。


名古屋を中心とした濃尾地方で作成されていた不動産登記簿
といえば家並帳。

田畑の永代売買が禁止されていた農村と違い、
都市においては、不動産の売買が自由でした。
そしてこの家並帳は、
町奉行の指示で定期的に提出が命じられました。

各町の町代が、町に何件の不動産があって、
それを誰が所持しているのか、
それはいつ、誰から誰に、どのような形で、売買か、相続かなど
全て把握して記録しておいたわけです。

町奉行が不動産登記簿の作成指示をしたと言いましたが、
町奉行は城下町、名古屋全体を統括しており、
その下に各町がありました。
その町の束ね役が町代です。

そして、
町奉行と町代のパイプ役を惣町代がつとめました。


町奉行からのさまざまな伝達事項というのは、
この惣町代を通して、触(ふれ)して伝達をされ、
各町に伝わります。
現代の回覧板のようなものです。

そして、
各町には共同体としてのルール、町法がありました。
共同体のルールといえば、村法、
村法といえば「村八分」が思い浮かびます。

村人のつきあいを、
葬式、火事、成人式、結婚式、出産、病気、新改築の手伝い、
水害時の世話、年忌法要、旅行の10に分け、
この10のつきあいのうちの、
葬式と火事を除いた8のつきあいを一切しない。
これが村八分です。

現代の隣の人の顔も知らないという、生活環境と違いますので、
共同体として、村八分というのは、
十分制裁的意味を持っていたといえます。


では、町法にも同じくらい制裁的意味があったのかというと、
村法に比べて若干弱いです。
町法の中には、村八分的な制裁項目がありません。

安全管理、治安維持、住民相互の振舞(ふるまい)に関する
規定が多くみられます。
例えば、不動産を売買する手続きには、
契約の前に、町の許可が必要でした。

共同体の秩序を乱すようなものは入れない。
どんな商売か、不動産を購入して町の人になろうとしている人柄に
問題はないかなどの審査があり、
そこで許可が出て、はじめて契約、引渡しとなるのです。


その後、振舞という弘めがあります。
振舞は、今で言えば、タオルを持って近所へのご挨拶
といった軽い感じのものですが、
当時は、挨拶をしなければ町には入れなかったのです。

このような振舞の手続きというのは、
引越しの新規入居者だけではなく、婚姻の場合も同じです。

江戸時代においての婚姻は、
お世話になった町役人に挨拶である披露目をしてはじめて
認められるのです。

このような規定が書かれているのが町法です。


さて、名古屋市民の支払った、不動産にかかる税金は、
家持の所有不動産の間口の大きさを基準に決められます。
これが市政の経費、「町役銀」です。

時代によって、町によっても差がありますが、
享保時代の記録から、
家持1人当たり、おおよそ5千円くらいの計算になるのでは
ないでしょうか。

この「町役銀」の他に
先ほどの伝馬町、伝馬問屋 吉田伊兵衛から
惣町代を通して請求される「人足歩割」、

さらには、町奉行所からというわけではなく、
例えば、堀川沿いで雨が降って溝がつまってしまった
というような場合の溝浚えの負担など
生活を維持するための各種負担は、
各町が自発的に行ってきました。

そして、家持が租税負担者として、
家持身分として特別なものであったといいながらも、
借家人であっても生活する共同体の一員として、
各種の役を負担するということも十分にありました。

そして、その割り当ては
生活状況を常に一緒に生活しながら公平に状況を判断するという、
各町の町代にゆだねられていたわけです。


最後に、町内の儀式の一例として、
末広町の「ヘケベケ」を紹介します。

「ヘケベケ 馴子舞」は、町人として一大イベント、
祭りの山車に乗る資格を得るために、
その年の元服者の中から候補者が、
異形の服装で町民の見守る前で釜の周りを回ったり、
都々逸や踊りをさせられるというものです。

だいたい江戸時代の元服は13〜15歳です。
この儀式をしてはじめてこの町では一人前と認められました。
現代と違った町内の人との関わり、つながりがあったわけです。

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ